2021年1月24日 霊の空き家


「・・試練・・をこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ 1:2)
私たちは試練に目を留めると、ー(マイナス)を数え易くなり、元気を失います。
しかし試練に出会っても、+(プラス)を数えるなら、人間として成長し、心は平安に守られます。
私たちは十字架を見上げる時、+(プラス)を見ます。
主を愛し、主に従って行く者のために、「主がすべてのことを働かせて益としてくださいます。」(ローマ 8:28)
ハレルヤ!
——— K.デルミン


“Consider it a pure joy…whenever you face trials…” James 1:2.
When we keep our eyes on our trials we easily start counting the – (minuses) and get downhearted.
But when we face trials and commit them to Jesus thanking him and we start counting the+(plusses), we grow as human beings and our hearts will be kept in peace.
When we look up at the cross we see a +(plus).
…in all things God works for the good of those who love him and obey him. Romans 8:28
Hallelujah!
——— Kerstin Dellming 


今週の暗唱聖句

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
———  マタイの福音書 28章20b節


And surely I am with you always to the very end of the age.
——— Matthew 28:20b


今週のメッセージ

※ 録画が途中で終わっているため、以下のテキストをご参照ください。

聖書箇所:ルカの福音書 11章 14~26節
交読箇所:イザヤ書 34章 12~15節
暗唱聖句:マタイの福音書 28章 20b節

前回は、「主の祈り」に続いて「私たちの祈り」、即ち、緊急時の祈りについて学びました。今日は、霊の支配とその働きについて学びたいと思います。早速14節から見て参りましょう。

14.イエスは悪霊、それも口をきけなくする悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、口がきけなかった者がものを言い始めたので、群衆は驚いた。

私たちは、人が話すことが出来ないのは病気のせいだと考えます。しかしここでは、口をきけなくする悪霊がその原因であり、悪霊を追い出したら、たちどころにものを言い始めたと記されています。我々の感覚とは大分違いますね。

ここで私たちがまず知るべきことは、イエス様が地上におられた約30年間に限って、悪霊の活動が非常に活発であったということです。旧約聖書全体で悪霊についての記述があるのは、申命記32章17節と、詩篇106篇37節の2ヶ所だけです。ところが、イエス様が地上で生活された約30年間では、四福音書に32ヶ所も出て来るのです。そしてイエス様が天に戻られた後の使徒の働きでは、悪霊の記述は2ヶ所しか出てきません。

このように悪霊の活動が、イエス様が地上でお暮らしになった時期に集中した理由は、何だったのでしょうか? それは、黙示録12章 3, 4節に記されています。

また、別のしるしが天に現れた。
見よ。大きな赤い竜である。
七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。
また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。
彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

ここで赤い竜とはサタンのことです。そして、女が産もうとしている子がイエス様なのです。ですからサタンは、その子(イエス様)を食い尽くすために第二の天である宇宙空間にいた天の星(全天使)の三分の一を自分の手下として、地上に送り込んだのです。これが全天使のうちの三分の一を占める堕天使、即ち悪霊なのです。イエス様の時代には悪霊が地上に溢れていたのです。

そもそも病気というものは、悪霊が主たる原因の場合もあれば、そうでない場合もあるようです。イエス様の時代には、悪霊が主原因で病気になる場合が、今よりもはるかに多かったということです。

しかし悪霊が病気の主原因である場合は現在でもあるようです。それはどんな場合なのでしょうか。例えば、精神的な病気を抱えている人について考えてみましょう。次のような特徴を持つ人が、悪霊が主原因の病であると言えそうです。非常に偶像崇拝的、オカルト的で、極めて不道徳であり、悪の力に対する抵抗力が弱く、人に対する恨みや憎しみなどで心が満たされており、殺意を持って非常に破壊的な考えをする人です。現在は、そのような人が増えているような気がします。

イエス様が悪霊を追い出され、口がきけなかった人がものを言い始めたのを目の当たりにした群衆は、びっくり仰天しました。これは素直な、至極当然の反応です。ところが次の15節、16節では、こんな素直な反応ではなくて、全く別な反応をする者たちがいたのです。

15.しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言う者もいた。
16.また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。

15節では、イエス様が悪霊を追い出したのは、悪霊どものかしらベルゼブル、即ちサタンによるのだと言う者がいたのです。これはイエス様がサタンの側につく者であるということを意味しており、まさに神を冒涜する言葉でした。いったい誰がこんなことを言ったのでしょうか。

15節には彼らのうちの者、即ち群衆の中の一人であると記されています。マタイの福音書にはもっと具体的に書かれていますので、12章22~24節を見てみましょう。

そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。
イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
群衆はみな驚いて言った。
『この人は、ダビデの子なのだろうか。』
これを聞いたパリサイ人は言った。
『この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。』

ここから分かるように、群衆の中に紛れ込んでいたパリサイ人が言った言葉だったのです。パリサイ人はユダヤ人大衆の指導者でした。彼らはこれまでも、ことあるごとにイエス様に敵対してきましたが、今回はその中でも最悪なものでした。イエス様がサタンを利用して悪霊を追い出したのだと中傷したのです。

次の16節では、先ほどのパリサイ人とは別のパリサイ人が、イエス様にメシアであるしるし、即ち、「証拠としての奇跡」を見せて欲しいと求めたのです。悪霊を追い出すことも、しるしの一つですが、もっと明白な「天からのしるし」を見せて欲しいと言ったのです。この人が天からのしるしとして期待したのは、Ⅰ列王記に出て来る預言者エリヤが行ったような奇跡です。

カルメル山で、450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を相手に、天から主の火を降らせ、全焼のいけにえを焼き尽くした、あの大きなしるしです。しかしエリヤの時代の人々は、これほどのしるしを見せられても、エリヤの信じる主こそがまことの神であるとは信じませんでした。信じない者、どこまでも逆らう心に対しては、どんなに大きな天からのしるしであっても意味がないのです。

しかしよく考えてみると、そこにはエリヤの奇蹟よりもさらに大きなしるしがありました。それは、キリスト・イエスの存在です。天地を創造された神ご自身が人となってお生まれになり、地上で生活されていたこと自体が、これまで起きたどんな奇跡よりも、大きなしるしだったのです。このことに気付くかどうかが鍵なのです。

この主の存在というしるしを、本当のしるしと見ることが出来る人はもはや動かされません。世界中でどんな出来事が起ころうとも、これ以上のしるしを見ることはないからです。サタンがどんなに素晴らしいわざをやって見せたところで、動かされることはありません。こうして2千年に渡って、キリスト信仰は不変の真理として存続して来たのです。

ところでベルゼブルとはどんな意味なのでしょうか。マタイの福音書10章25節にその答えがあります。「弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」 ベルゼブルの元々の意味は、「家長」とか「住居の主(あるじ)」と言う意味でした。それが、「サタン」の別名として用いられるようになったのです。ベルゼブルは、手下の悪霊どもで満ち溢れている家の家長なのです。さしずめ「サタン組の親分」と言ったところでしょうか。

17.しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
18.サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。
19.もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。

19節の後半は分かりにくい所ですので、後ほどご説明します。この17節から19節は、パリサイ人が語った恥知らずな中傷に対するイエス様のみごとな反駁であります。どんな国であっても、その中で内輪もめがあるなら、その国は立ち行かないのです。それは神の国であっても、サタンの王国であっても、あるいはこの地上の国々であっても同じことです。14節でご説明した通り、イエス様の時代は、全天使の三分の一に当たる堕天使、即ち悪霊が宇宙空間から地上に送り込まれていました。サタンの王国が一致団結して、神の独り子イエス様を食い尽くすために集まっていたのですから、内輪もめなどしている場合ではなかったのです。

19節でイエス様はさらに追い打ちをかけられます。あなたがたの仲間は、だれの名によって悪霊を追い出すのですか、と仰いました。ここで、「仲間」と訳されている単語に注目しましょう。ギリシャ語原文では息子たちと記されていました。そうしますと、「あなたがたの息子たち」とは、誰のことを言っているでしょうか。それはパリサイ人の指導の下にあった一般のユダヤ人です。

と言うことは、悪霊を追い出していた一般のユダヤ人がいたということになります。ベルゼブルの名によっては悪霊を追い出すことなど出来ませんから、彼らは主イエスの御名によって悪霊を追い出していたのです。彼らはどこかでイエス様が救い主であることを知り、悪霊に対して、「メシヤである主イエスの名によって命じる。出て行け。」と言ったのです。すると悪霊は、主イエスの御名を恐れ、その権威を認めて、人から出て行ったのです。

このことは、ルカの福音書9章49、50節に記されていました。覚えていらっしゃいますでしょうか。

ヨハネが答えて言った。
『先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。』
しかしイエスは、彼に言われた。
『やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。』

使徒たちの仲間ではなかった、一般のユダヤ人が、悪霊を追い出していたのです。この事が分かると、19節後半の謎の言葉「あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」の意味が明らかになります。即ち、主イエスをメシヤと認めたこの一般のユダヤ人が、終わりの日に、彼らの指導者であったパリサイ人を罪に定めることになる、ということであります。

20.しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。

ここでイエス様は次のように仰っています。「イエス様が悪霊どもを追い出されたのが、ベルゼブルによってではなく、神の指によってであるならば、その事実をもって、神の国はもうあなた方の手の届く所に来ているのです。あとは、あなたがたが手を伸ばすだけです。」

この神の指という言葉は、出エジプト記 8章 18、19a節に出て来ます。

呪法師(じゅほうし)たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。
ぶよは人や獣についた。
そこで呪法師たちはパロに、『これは神の指です』と言った。

エジプトのパロの呪法師たちは、モーセを通して成された多くのしるしを、初めのうちはモーセと同じように行うことが出来たのです。杖を投げて蛇に変えたり、その杖でナイル川の水を打って血に変えたり、杖を水の上に差し伸ばしてエジプトの全地をカエルで覆うなどのしるしです。ところが、杖で地のちりを打ってエジプト全土でぶよに変えるというしるしは、さすがの呪法師たちも真似をすることが出来なかったのです。その時彼らがパロに告白した言葉が、「これは神の指です」でした。つまりこれは、「人間が出来る限界を超えた神様の御手が働いたのです」、という呪法師たちの告白であり、ギブアップ宣言だったのです。

出エジプトの出来事は、新約聖書に記されている「本当の救い」のひな型です。イスラエル人を奴隷の地エジプトから解放するために、モーセを通して神の指が働き、一連の災いのしるしが成されました。こうして、彼らは約束の地カナンへ行くことが出来、そこで自由と神様からの祝福とを得たのです。そして今日の聖書箇所では、罪と死の原理の下で奴隷として滅びる運命にあった人類が、神の指による開放、即ち、キリストの十字架と復活の贖罪によって、永遠の神の国の祝福に預かることを示しているのです。イエス様がこの神の指によって悪霊どもを追い出しておられるのであれば、まさにこの事実をもって、「神の国は既に到来しているのだ!」、とイエス様は宣言なさったのであります。

この「神の指」は、神の御手、神の支配と言い換えることも出来ます。しかし神の指と言う方が、神様の力強さを的確に表しています。神の指先がひとたび働くなら、いくら強力なサタンといえども、足もとから崩れ去っていくしかないのです。私たちが信じる神様とはそのようなお方であり、この神様のご子息であるイエス様によって、偉大な神様の力が具体的にこの世に現れて来たのであります。

21.強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
22.しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。

これは譬え話であり、21節はサタンのことを譬えています。サタンは神様を除けば一番強い者です。ですから、神の指の働かない所では、サタンとその持ち物である悪霊とは安全なのです。そこで人間はサタンの虜(とりこ)となり、サタンの支配下に置かれるのです。人間がどんなに頑張ったところで、どんなに修行を積んだところで、サタンに打ち勝つことはできません。

そして22節に記されているもっと強い者とは、三位一体の神様のことであります。イエス様はサタンに打ち勝つためにこの世に来てくださいました。サタンが罪によって縛り上げている人間を解放するために来てくださったのです。罪の問題を解決して人間を救い出すことが出来るのが、イエス様の十字架と復活です。この贖罪の業によってのみ、人間はサタンから完全に開放されるのです。サタンの分捕り品であった人間が、この時解放されます。私たちがサタンに勝ち、罪に勝つ道は、このイエス様以外にはありません。「わたしが道である」と仰ったイエス様だけなのです。ですから、もし私たちがイエス様の御許(みもと)に行かず、イエス様の救いを拒否するならば、私たちはサタンの分捕り品としてそこに留まるしかありません。サタンの分捕り品として留まるのか、それともサタンから解放されてイエス様のものになるか、そのどちらかしかないのです。中間は存在しません。次の23節で、イエス様はこのことをはっきりと宣言なさいます。

23.わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らすものです。

イエス様は、今まさに口をきけなくする悪霊を追い出されたように、サタンと罪の支配下から一人一人を引き出して、神の国の民、神様の子として集めておられました。このイエス様の側につく者は、イエス様が救われる人を集めておられるこの働きに、共に預かる者となるのです。神の国を証しし、一人でも多くの人をこの世から救おうと、イエス様と共に集める者になるのです。もしそうでなければ、わたしとともに集めない者は散らすものになるしかないのです。皆様方の中には、「私はまだイエス様のためには働かないけれども、もちろんサタンのためにも働かない。」と、自分はまだ中立状態にいると思っている方がおられるかもしれません。しかし、客観的にはそのような中立状態などは存在しません。神の国に属するか、サタンの世界に属するか、そのいずれかでしかないのです。中間状態は、決して存在しません。

次の24節から26節は、今日最後の聖書箇所です。ここでもイエス様は譬え話でお話しをしておられます。と同時に、14節の口をきけなくする悪霊を追い出してもらった人の、その後の話でもあります。

24.汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25.帰ってみると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
26.そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。

24節では、人から出て行った汚れた霊、即ち悪霊は、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。水のない所と言うのは、乾燥した不毛の地、命の輝きのない荒涼とした荒野のことです。この荒野は、今日の交読箇所である、イザヤ書 34章 12~15節に記されているように、汚れた動物たちの棲み処、休み場なのです。悪霊の働きがあまり盛んではなかった旧約聖書の時代には、このような荒野が、悪霊の好む場所だと考えられていました。ところが、イエス様が地上に来られ、悪霊の活動が激しくなると、悪霊は荒野よりも人間の中に住むのを好んだようです。

と言いますのは、悪霊は、人間の心の中では思いのままに、悪の原理で人間を支配することができるからです。人間の心の中の方が、荒野よりもはるかに面白みがあり、憩いの場であることを知るようになったのです。さらにそこでは、人間の世界に不幸と破滅の輪を広げることが出来、神様のわざを破壊しようとするサタンの目的にもかなっているのです。ですから悪霊は、水のない所をさまよいながら、休み場を捜すのですが、荒野ではそんな所は一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言ったのです。悪霊は追い出されても、自分から外に出たとしても、その人間の心を自分の家と認識し、所有権さえ主張するのです。悪霊とは、そのように厚かましく、強欲な者なのです。

25節では、悪霊が帰ってみると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました、とあります。マタイの福音書 12章 44節の並行記事を見てみましょう。

そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。

ここには、帰って来た場所は「空き家」だった、という新たな情報が記されています。その人の霊の状態が、空き家であったと、マタイの福音書は伝えているのです。こんな良い住居は他にはありません。住み手のない空き家で、掃除がしてあり、きちんと片付いていたのですから。

26節では、最高の住居を発見した悪霊が出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなってしまうのです。ここに出て来る「7」というのは完全数ですから、この数字には悪霊の強い意気込みが込められています。即ち、この最高の住居を完全に自分たちの手中に収め、いつまでも住み続けてやろう。誰が何といっても絶対に出て行かないぞ! という強い意気込みです。七つの、より邪悪な悪霊どもに占拠されたこの人の霊の状態が、以前よりも悪くなるのは当然のことです。せっかくイエス様の力で悪霊を追い出していただき自分の霊を聖めて頂いたのに、その後、無責任な生き方をしたがために、キリスト信仰を失うようなことになってしまうなら、それはキリスト信仰を持つ前よりも、さらに状況を悪くしてしまう、とイエス様は仰ったのです。ですから私たちは、自分自身をいつも「神様のもの」として生き続けることが大切なのです。

24~26節に書かれていることは、二つの視点から考えられます。一つ目は、口をきけなくする悪霊を追い出してもらった人の視点です。二つ目は、パリサイ人を含む当時のユダヤ人社会全体の視点です。今日は時間がありませんので、二番目の視点だけについて見て行きます。

イスラエルは悪霊を追い出され、偶像信仰から聖められ、まことの神を信じる選民となりました。しかし、いつの間にか肝心な神様を外に放り出し、神殿の儀式やお祭りばかりが盛んになって、信仰や律法は形骸化し、上辺だけが立派になったのです。神の子イエス様がお出でになったのに、真っ先に迎えるはずの彼らがイエス様を排撃しました。サタンにつく者だとさえ言ったのです。神の家であるべきイスラエルの神殿は、七つの悪霊の殿堂になり下がり、掃除はよく行き届いているが、神の御霊は住んでおられませんでした。それがイエス様時代のユダヤ人社会の姿だったのです。

このことを私たちに当てはめてみると、どういうことになるでしょうか。私たちがイエス様を信じて救われた時、私たちの心には聖霊が入ってくださいました。そして御霊の賜物が与えられたのです。御霊の賜物には、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒し、奇跡を行う力、預言、異言、異言を解き明かす力、悪霊を追い出す力など様々あります。

ところが私たちは、聖霊そのものよりも、この御霊の賜物の経験を慕って、この御霊の経験で自分を飾ろうとか、自分を高くしようとする誘惑にかられることがあります。霊的に偉くなろうと思ってしまうのです。私はこんなことが出来るようになったとか、こんな経験をしたとかで思い上がっていくなら、それこそベルゼブルに取りつかれた者、七つの悪霊の住居になってしまいかねません。

ルカの福音書 10章では、イエス様が70人の弟子たちを派遣された時、彼らは喜んで帰って来て、「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」と報告しました(17節)。しかしイエス様は、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と戒められたのです(20節)。

元々御霊の賜物とは、皆(みな)の益となるために、主がおのおのに与えて下さったものです。自分自身のために使うものではないのです。御霊の思いはどこまでも、謙遜、貧しさ、低さにあります。「イエス様無しではもう一歩も歩けない」と主に頼り切り、心貧しく生きる時、聖霊はしっかりと働いて下さるのです。幼子が母親を呼び求めるように、ただ毎日主を呼び求めるだけです。そこに於いて御霊の愛はありがたく、こんな者を愛してくださる神様の愛に打ち震えるのです。このようにして私たちは低くされ、人に仕えていくことが出来、人を愛する者へ変えられて行くのです。

私たちには、七つの悪霊の住居になるのか、それとも何の飾りもない御霊の住居になるのか、この二つの選択肢しかありません。悪霊の住居でなければ、御霊の住居なのです。ここでも中間状態は無く、「霊の空き家」であり続けることはできません。そして、御霊は決して自ら出て行かれることはありません。一度信仰者の心の中に住んで下さった御霊は、私たちが信仰を失わない限り、世の終りまで出て行かれることはないのです。

今週の暗唱聖句です。
見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます。マタイ28:20b

今イエス様は、天の御国では父なる神の右に座しておられるますが、同時に、聖霊として時間と空間を超越し、私たちの心の中でも生きて働いていてくださるのです。それは、私たちがイエス様に似た者となるため(聖化と栄化)であり、人生の真の勝利者となるためにです。