2020年5月17日 「残り少ない伝道の時間」

takaoka-chapel

2020年4月13日~5月9日
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、教会の全ての集まりを中止します。
礼拝(第二礼拝)はインターネット配信します。
※ 期間を5月31日まで延長いたします。 


今週のメッセージ


メッセージ本文

聖書箇所:ルカの福音書 10111

教会の大切な使命に伝道があります。教会の「頭」であるイエス様がこの世に来られたのが、失われた人々を救うためでしたから、「体」である教会にとって、それを伝える伝道が大切な使命であるのは当然のことです。イエス様がこの地上で暮らしておられた時、最初はお一人で伝道しておられました。それから弟子たちがつき従うようになり、イエス様の伝道を間近で見て育ったのです。イエス様の伝道は、悪霊を追い出し、病気を癒し、神の国を宣べ伝えるという「全人格的な救い」でした。即ち、肉体と霊両方を救うものでした。やがてイエス様は、12使徒を伝道のために遣わされましたが、手ぶらで送り出されたのではありません。すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とをお授けになったのです。これはガリラヤ伝道終り頃の出来事でした。

そして今日学ぼうとしている箇所は、更に70人の弟子たちを伝道に遣わされる場面であります。この70人の弟子の派遣が記されている福音書は、ルカだけです。イエス様が12使徒の時と同じやり方で70人を遣わされたので、マタイ、マルコ、ヨハネの三人は、敢えてこれを残さなかったのでしょう。ヨハネの福音書の最後に、イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と書かれています。イエス様がなさった御業があまりに多かったので、福音書には選りすぐった出来事を書き残す必要があったのです。ルカただ一人が70人の弟子の派遣大きな価値を見出したので、これを書き残したのだと思います。そのあたりに着目しながら、最初の1節を見てまいりましょう。

1:その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。

イエス様は再び弟子たちをお遣わしになりました。今回は、12使徒とは別の70人の弟子新たに定め、前回と同じように2人ずつペアで派遣されたのです。70人という弟子のですが、72と記されている聖書もあります。70人と書かれている聖書は、新改訳の他に、文語訳、口語訳、現代訳聖書などです。一方72人と書かれている聖書は、新共同訳や、英語のNew International Versionなどです。何故二種類あるのかと言うと、聖書翻訳の元となった写本が異なっているからです。70という数値は、旧約聖書では特別な意味を持っていました。エジプトに行ったヤコブの一家が70人、イスラエルの長老の数も70人でした。ユダヤの最高議会サンヘドリン議席数も70人だったのです。一方72というが旧約聖書に出て来るのは、僅か1回だけで、それは民数記に記されています。ミデアン人と戦って分捕った牛36,000頭のうち、主への貢ぎものとしたのが72頭の牛でした。ですから、この72という数はあまり重要な数ではありません。

この事から分かるのは、おそらく72人の方が元々の数であって、それを特別な意味を持つ70人に変えた写本があったということでしょう。因みにこの70という数は、当時の人々が認識していた「全世界の国の数」でもありました。ですからルカは、次のように考えたのではないでしょうか?最初に派遣された12使徒は、イスラエルの12部族を代表するので、イスラエル人への伝道を表している。次に派遣された70人の弟子は、近い将来、全世界の70の国々に福音が宣べ伝えられることを暗示している、と。新約聖書の記者の中で唯一人の異邦人であったルカは、パウロと共にローマにまで伝道旅行に行った、世界的な視野を持つ人でありました。ですから彼は、やがて世界中のあらゆる国民が主を知り主を愛する日が来る、と考えていたに違いありません。それでルカは、この70人の弟子の派遣についても、福音書に残しておきたかったのでしょう。

イエス様はご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになりました。イエス様は、どこの町や村に行かれるつもりだったのでしょうか? オランダの聖書学者ミュルデルは、次のように語っています。「イエス様は、サマリヤを通り、その後ヨルダン川東岸を通ってエルサレムに行かれたと思う。なぜならこの地域には異邦人の血が混じった人々が多く住んでおり、これまで一度も伝道されたことが無かったからだ。イエス様は十字架にかけられるまでに残されていた二カ月間で、できるかぎり多くの町や村を訪ねたいと願っておられたのである。」イエス様に先立って遣わされた70人の弟子たちが、人々の病を癒し、み言葉の種を蒔き、その後で来られるイエス様たちがその魂を収穫できるように道備えをする、これがこの70人の弟子たちに託された使命だったのでしょう。地上で残された最後の2カ月間を、この伝道のために全力を注いでおられたイエス様のお姿が目に浮かんで来るようです。

2:そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

先に遣わされた70人の弟子たちがみ言葉の種を蒔き、その後で来られるイエス様たちが魂の収穫をなさるのですから、伝道の働きには、種を蒔く働きと、収穫をする働きとがあるのが分かります。私たちクリスチャンも種蒔きの働きを担うことがあれば、刈り入れの働きを担うこともあるのです。このように、主によって備えられ、整えられた働き人が主のもとから遣わされて来なければ、決して魂の収穫を得ることはできないのです。

「麦畑の収穫」と聞いて私たちが連想するのは、黄金色に色づいた麦の穂を、人々が喜びながら、感謝しながら刈り入れる姿であります。では「魂の収穫」の場合はどうでしょうか? 人間的な目で見るなら、そこには惨めな人々が溢れています。魂が飢え渇き、肉体も衰え、弱り果てています。真実の救いを求めてやまない貧しい魂不安な魂悩み苦しむ魂、これが霊的な収穫の姿色づいた状態なのです。このような時に、肉体が癒されみ言葉の種が蒔かれるなら、きっと刈り入れ上手く行くでしょう。最終的に魂の収穫を成してくださるのは神様ですが、その収穫に至る過程では、どうしても働き人が必要となるのです。一人や二人では足りません。十人や百人でも足りません。飢え渇いている人々は、私たちが思っている以上に多いからです。まさに、実りは多いが、働き手が少ないのです。ですから私たちは、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈ることから始め、そのために人を育てていかなければいけません。ただ安直に、働き人をどこかからリクルートしてくればよい、というものではないのです。

3:さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。

4:財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。

イエス様は、この70人の弟子たちを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものだと仰っています。しかも手ぶら靴もはかずに行くのですから、本当に無防備な状態で、ただキリストのお名前だけを携えて行くのです。愚かで弱い動物で、羊飼いがいなければ、簡単ににやられてしまいます。しかも子羊ですからなおさらです。ですからこれは本当に無茶なことで、子羊を狼の中に送り出す羊飼いなど一人もいません食われるために送り出すようなものだからです。

では、イエス様は何故こんな無茶なことをなさったのでしょうか? 確かにこの70人は子羊のように弱いのですが、彼らはその働きが出来る権威を、主から授かっていたのです。のようなサタン悪霊に打ち勝つ力を授けられていたのです。12使徒の時と同じように、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とが授けられていたのです。何故それが分かるのでしょうか?このすぐ後の1017にそれが記されているからです。「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」

実は私たちクリスチャンにも、この70人の弟子たちと同じように、主イエス様のお名前の権威を行使する特権が与えられているのを、皆様ご存じだったでしょうか? それは、マルコの福音書16章16~18節に記されています。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います ”しるし”というのは、”証拠としての奇蹟” のことです 。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り(異言)、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。」ですから私たちは、子羊のようにか弱い存在であっても、主の働き成していくことが出来るのです。このことをしっかりと自覚しておくことが大切です。

5:どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。

6:もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに帰って来ます。

どこかに迎えてくれる家があれば、そこに入って「この家に平安があるように」まず、祈るのです。この「平安があるように」と言う言葉は、ユダヤ人の日常の挨拶「シャーローム」のことです。「シャーローム」は「こんにちは」という挨拶ですが、それ以外にも「さようなら」、「おはよう」、「お休みなさい」という意味もあるそうです。しかし、ここで使われているのは、単なる挨拶の言葉ではありません。心からこの家の平安を祈るその挨拶なのです。どこの家に行っても、まず平安がこの家にあるように、と祈るのです。祈る心を持って挨拶をするのです。

6に記されている平安の子とは、「その平安を受けるのにふさわしい人」のことです。そもそも、真の平安とは、神様と罪人である人間との和解によってのみもたらされるものです。この神様と私たち罪人の「和解の架け橋」となって下さった方がイエス様です。ですから、弟子たちが携えて来たこの「イエス様の福音」を、心を開いて受け入れる者がいるなら平安はまさにその人のものその家のものとなるのです。それが平安の子になるという意味であります。

反対に、もし平安の子がいないなら、その平安はあなたがたに帰って来ます、と書かれています。「この人のために」祈った平安をその人が拒絶しても、その平安は無駄にはならず、自分の上に帰ってくるというのです。そのことを通して自分自身が恵まれ、一層キリストの平安に満たされる者になっていくと言うのです。もし本当にそうであるなら、私たちは失望しなくて済みます。「あの人のために祈ったのに、一生懸命福音を伝えたのに、ますます固くなって受け入れない。」こういう時、私たちはがっかりします。自分が情けなくなります。でもこのみ言葉は、そういう時のためのイエス様の心づかいなのです。イエス様は私たちを、次のように励ましてくださるでしょう。「その人のために祈ったこと、語ったことは決して無駄になんかならないよ。この先、その人が目を開き、心を開くかもしれないじゃないか。その時は跳ね返されても、それが自分の上に戻って来て、その人のためにと祈った平安をあなたが受け取るのだから、がっかりすることはないんだよ!」このようにイエス様の心使いは、いつも暖かく、優しいのです。

7:その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。

8:どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。

9:そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。

あなた方を受け入れてくれる家が決まったなら、その家で出してくれる食べ物は何でも食べなさい、とイエス様は仰いました。そして家から家へと渡り歩いてはいけませんとも仰いました。このみ言葉の意味を考えてみましょう。まず、出された物は何でも食べることについてです。ご承知のように、イスラエルでは食べてもよいきよい食物律法で定められています。これを「コーシェル」と呼びます。弟子たちが伝道している町は、異邦人の血が混じった町ですから、コーシェルではない、汚れた食べ物が出て来る可能性が高いのです。例えば私たちの好物である、豚肉、エビ、タコ、カキ、ウナギなどがそれにあたります。日本人の好物は、イスラエルでは汚れた食べ物なのです。しかしイエス様は、出される物は何でも食べなさいと仰いました。何故なら、残された時間が少ないから、細かな規定にいちいちこだわっていては、肝心の伝道が進まないからです。そして、それよりももっと大切なことがあります。それは、この時代が旧約の「律法の時代」から、新約の「福音の時代」変わる途上にあったことです。イエス様は、「口に入る物は人を汚しません。口から出るものが人を汚します」と仰ったように、この時代はまさに「律法から福音へのパラダイムシフト」の途上にあったのです。

7家から家へと渡り歩いてはいけない、その一番の理由は、伝道の効率が悪くなるからでしょう。一つの町では一つの家に留まって、伝道に専念しなさいと言うことであります。さらに、家から家へと渡り歩くのは、より快適な家を求めて渡り歩くということでもあります。ですから、せっかくあなた方を泊めてくれた家を、踏みにじるようなまねをしてはいけない、ということでしょう。

そして9に書かれていますように、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』、と伝道して歩くのです。12使徒が遣わされた時と同じように、神の国の福音は心だけのことではありません。心の宿り場である肉体を含む、全存在の救いの出来事なのです。

先ほど、食べてもよい食物「コーシェル」の話の中で、律法から福音へのパラダイムシフトについてお話しました。そもそもパラダイムシフトというのは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが、劇的に変化すること」です。今、世界は新型コロナウイルスで大騒ぎですが、その中でBC, ACの論議がなされています。BCとはBefore Corona、ACはAfter Coronaのことです。これは、新型コロナ感染というパンデミックが終息した後のAfter Coronaの時代には、新たなパラダイムシフトが起こるのではないかと言う議論です。例えば日本では、学校の始業時期4月から9月に変えようという議論が出ています。これなどはその一例でしょう。しかしそんなちっぽけな話ではなく、もっと抜本的に社会全体の価値観が変わるようなことが起こるかもしれないのです。それは過去の歴史の中で繰り返されて来たことだからです。

大きなパラダイムシフトが起きたのは、14世紀の半ばヨーロッパで始まったペスト(黒死病)パンデミックでした。このパンデミックが起きた原因は、モンゴル帝国ユーラシア大陸統一したことによって、大規模な経済圏が出来たからだと言われています。「パックス・モンゴリカ」と呼ばれたモンゴル帝国平和の時代には、ユーラシア大陸をヒトやモノが自由に行き来することが出来たのです。「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロも、このユーラシア大陸をイタリアから中国まで旅しました。シルクロードを歩いて遥々中国まで行ったのです。ペスト菌はこれとは逆に、ユーラシア大陸を中央アジアあるいは中国から、ヨーロッパ感染していったのです。もしも感染源が中国であった場合には、ヨーロッパに伝わるまでに12かかったと言われています。当時のヒトやモノが移動するスピードが歩く早さでしたから、こんなにも時間がかかったのです。今回の新型コロナウイルスは、数週間で中国からヨーロッパに感染しました。それは飛行機で移動したからです。そして、この14世紀のペストのパンデミックの時には、ヨーロッパ全体の人口の三分の一が亡くなったと言われています。それはひどいパンデミックだったのです。

14世紀のペストのパンデミックが、当時のヨーロッパ社会に与えた影響三つあったそうです。第一は、労働力が急激に減少して賃金が上がったために、農民の労働力が都市に流れてしまい、農奴に依存していた「荘園制が崩壊」したことです。第二は「ローマカトリック教会の権威の失墜」です。ペストの脅威を防ぐことの出来なかった教会は、その権威を失ってしまったのです。第三は、はなはだしい人材不足のために、それまでは登用されることのなかった身分の低い人々が登用され、その結果「封建的な身分制度が解体」したのです。この三つの社会的な影響とは別に「人間の思索」にも大きな影響を残したようです。ペストの流行半世紀にも及んだそうですが、この期間、ヨーロッパはある意味で、「静謐で平和な時間」を迎えたと言われています。Stay Homeの期間が半世紀も続いたので、それが人間の内面的な思索を深めさせた、歴史家は指摘しているのです。

これだけの大きな変革を経た後ヨーロッパでは、イタリアを中心にルネッサンスが始まり、文芸復興を果たしました。また、自然科学の分野でも大きな変化がありました。当時のローマカトリック教会は、自然科学的なことに関しては、ギリシャの巨人アリストテレスの「自然学」支持していました。ですから、自然科学はギリシャ時代からほとんど発展していなかったのです。しかし、このパンデミックの後で教会の権威が失墜した時に、自然科学の分野、とりわけ天文学と物理学で新しい波が起こりました。コペルニクスを皮切りに、ガリレオ・ガリレイ、ケプラー、ニュートンたちが現れ、これまで停滞していた自然科学が大きく発展したのです。 [これについては、三田(さんだ)一郎さんが書かれたブルーバックス 「科学者はなぜ神を信じるか」に詳しく書かれています。三田さんは名古屋大学の名誉教授で、カトリック教会 名古屋司教区の終身助祭もなさっている方です。] そして宗教面においては、皆さまよくご存じの宗教改革が、ルターやカルヴァンらの手によってなされたのです。このような巨大なパラダイムシフトを一言で言い表すなら、まさに「時代が変わった」のです。「中世」と言う時代が終焉を迎え、新しく「近代」という時代が始まったのです。これはまさにパラダイムシフトと呼ぶにふさわしい社会の大変革でした。

では現代の社会は、After Coronaの時代にどのように変わって行くのでしょうか? これを予想することは簡単ではありません。しかし少なくとも、聖書に預言されている「終末の時代」に向かって、時代は益々そのスピードを上げて行くだろうと思います。終末の時代には、7年間の大患難時代の前に「教会の携挙」、即ち「イエス様の空中再臨」があります。この時、本物のクリスチャンは、全員が生きたままで天に引き上げられてしまいますから、伝道はそこでストップしてしまうのです。イエス様が十字架に架けられるまでの2ヶ月間に、70人の弟子を派遣されて伝道に専念された聖書の時代と、これからAfter Coronaの時代を迎えようとしている現代は、「残された伝道の時間が短い」という点でよく似ているのですでは、最後の10節から12節までをお読みします。

10:しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。

11:『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』

ここでイエス様は、町の人々が誰一人として弟子たちの伝道を受け入れない時に、弟子たちが取るべき行動を命じておられます。「するだけのことをしても受け入れられない場合は、後はそれを聞いた人の責任になるのだ!」このことを足のちりをぬぐい捨てるという仕草で、公にはっきりと示しなさい、と命じられたのです。執着しないで、きっぱりと別れを告げなさい、ということです。

イエス様はそう言われながらも、「しかし」と仰いました。「しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい」と言うように命じられたのです。このみ言葉には、現実の厳しさと、イエス様あわれみの心、その両方が含まれているのです。神様が今も生きて働いておられるという現実は、なお厳然(げんぜん)としてそこにあるのです。そのことを知りながら、それでも滅びの道をまっしぐらに突き進むのか、それとも、そのことが心のどっかに引っ掛かっていて、何かの折に神様が生きて働いておられることに目覚め神様のもとに立ち返るのか、この「選択肢」最後の最後まで残しておられるのです。救いの可能性を残したまま、伝道の働きを締めくくるのです。

この最後の最後まで諦めないで待っていてくださるこのイエス様のあわれみ忍耐は、本当にありがたいことです。私も、このイエス様のあわれみ忍耐の恵みを受けた一人です。私は、クリスチャンの家庭に生まれ、幼児洗礼を受け、高校生の時に堅信礼を受けました。しかし、大学に進学して親元を離れてからは、次第に教会から離れてしまいました。結婚を前にして、再び教会に行くようになったのですが、その後アメリカで暮らすようになってからは、再び教会を離れてしまったのです。そんな私を見捨てることなく、イエス様はずっと待っていてくださいました。そして45の時に出向でやって来たこの富士の地で、デルミン先生ご夫妻との出会いを用意していてくださったのです。出来の悪い子を、いつまでもじっと我慢して待っていてくださったイエス様のもとに、ようやく帰ることが出来たのです。

人間の救いは簡単なことではありません。そして、残された時間もあまり多くないのです。しかし、愚かで弱い子羊である私たちの伝道には、イエス様が傍にいてくださいます。サタン悪霊に対してイエス様のお名前の権威を行使する特権も与えられているのです。私たちは、このことを忘れてはいけません愛と義なるイエス様全幅の信頼を置き、聖書を通して語られる主のみ心に聞き従い、私たちに与えられたこの人生を、最後の最後まで全うして行きたいと願うのです。